先日、龍源寺で座禅体験に参加してきました。
座禅に興味を持った経緯は、最近、経営者の中で座禅が流行っているという話を友人から聞いたからです。
私も経営者になる!という高い志を持っているわけではないですが、公園でまったり過ごすことや、自然の中で過ごすことが好きな私にとって、一度経験してみたいなと思っていたところでした。
東京都内になる龍源寺の二階で体験に参加させていただきましたが、場所は思ったよりも静かで、鳥の鳴き声が時々聞こえるなんとも情緒あふれる空間でした。
住職さんの座禅についての説明を聞き、座禅とは心を無にすること、一つの物事に集中するのだと教わりました。
そしていざ、座禅をおこなうのですが、これがまた難しい、
無になろうと頑張りますが、無になろうと考えている時点で無には達していないわけで、苦労しました。
無になることは不可能だと思って、一つの物事に集中しようと試みました。
仕事の事、人間関係の事、何か一つ話題を考え、それについて自問自答するよう心掛けたところ、短い時間ではありますが、それ以外の事を考えることなく、思考にふけることが出来ました。
しかし、振り返ると座禅をおこなっていた7割ぐらいはいわゆる雑念というか、別の考えが思い浮かぶ状態でなかなかうまく行うことが出来なかったです。
これは繰り返し行って少しずつ上達していくものなんだと実感しました。
そこで座禅を行うことから思ったことは、これは日常生活においても集中力という面でつながるのかなと思います。
身近にスマートフォンや様々な誘惑のアイテムがあることで私たちの生活はより集中力が希薄なものになっていると思います。
そこで自分で考えることがコントロールできれば、目の前の集中すべき事柄に注目することが出来るようになるのではないでしょうか。
そう考えると、何もない空間、何もしていない状態ですら一つの事を考えることが難しいということは、普通に生活する中で集中することなんてもってのほかだと思います。
以前から、明らかに集中力が落ちたと感じていましたが、今日の体験でそれをより強く実感することが出来ました。
何事も経験してみないと気付かないものだなとしみじみ思います。
PS
心に残った住職さんの言葉の要約
心を無にする理由は、自分のフィルターを通さないためである。
人は自分の見たいように見、聞きたいように聞く、要するに自分の経験というフィルターを通してしまう。
それでは、新しい発見や違った意見を見つけることができない。
そのために心を無にして、様々な角度、視点から物事を見つめるような姿勢を作るのだそう。